南谷修さん

南谷修さん
1955年度卒業

現在

学校法人本郷学園 同窓会会長

100周年にむけて

創立100周年誠におめでとうございます。

私は昭和13年に生まれました。社会人になったのは22歳の時です。鹿島建設株式会社に入りました。その時私に話しかけてくださった中年の先輩がおりました。なんと中学の先輩であり私が生まれた年に卒業した大先輩の玉虫さんでした。色々と話を聞かせてもらいました。「キジの剥製を見たと思うが、ぼく達が捕まえて作ったものですよ。」とか、校庭の整備など短い時間でしたが話していただきました。私が現場に出てしまったので、その後会うことが出来ませんでした。不思議なご縁ですがそれが歴史なのでしょう。

入学は昭和25年(1950年)です。当時の校長は内山 静一先生で理事長は松平頼明先生でした。生徒は殿(殿様)と呼んでおりました。名誉校長は徳川 宗敬先生で大殿と呼んでおりました。これは当時、住み込んでいた用務員ご夫婦がそのように呼んでおられたので自然と生徒皆がそのように呼ぶようになったのでしょう。翌年に大殿が新しい日本を進めるサンフランシスコ・講和条約・日米安保条約の調印のため、当時の吉田 茂首相と共に全権委員としていくことになり、生徒も自分たちが偉くなったみたいに大騒ぎしたのを覚えております。

入学後わけもわからずテニス部に入部しました。朝早くから先輩達が土のコートにローラーを掛けているので、私達も早く出てくるのが日課となりました。冬は霜柱が立つのでローラーが掛けられないので早く冬にならないかと思っていましたが、いつしか練習前にローラーを掛けるようになりました。今のもみじ幼稚園の園庭の所でありました。高校では混合ダブルスがあり、十文字女子学園と組んで出ておりました。テニスコート奧に柔道場が作られ、多くの部員で賑やかでした。丁度その頃だと思いますが三船十段(当時)が来られ、中学生を相手に乱取りしてくれました。道場では狭いのでしょうか、永井体育館にタタミを敷いて行われました。しかし衿をつかむことも出来ず、投げ飛ばされたのを覚えております。またその時の段位の帯が紅白でしたが、見たことも聞いたこともないのでそれだけですごいなぁ~と感じておりました。柔道部とは仲良く、同期の五十嵐さんがおり大学でも同じ学科であり、今でもお付き合いがあります。

当時は朝礼からはじまりますが、整列して集団行進をしておりました。これはボーイスカウトの影響であったと思います。整列が乱れたり、お喋りをしていると台上から飛び降りてコツンコツンと二階堂先生にやられました。今では考えられないでしょうがね。
二階堂先生とは、冬スキーでもご一緒させていただき、信濃四谷(当時)細野村に宿り、黒菱まで尾根を3時間程で登り、スキーで村まで戻り、村で昼食してまた登る。1日2本のスキーでした。リフトもなにもない時代でしたから、私が山好きになったのも、これが原点であったのかもしれません。

体操では竹本先生、上迫先生がおられ、永井体育館で練習されておられました。
以前、父のいた会社の体育祭に特別参加していた両先生にお会い出来たのも楽しい思い出となっております。

高校ではA,B,C,Dと4組となり、A組は文科系、B組は理科系と区分されておりました。当時は家業を継ぐ生徒もおり、就職する生徒もおりました。

時代とともに学校の方針も形も変わってきましたが、今は進学校として邁進している一方、部活では運動部、文化部ともにいくつもの全国大会に出るなど文武両立を実践しており嬉しく存じております。

創立100周年で本郷の文化、精神が益々充実していくことでありましょう。

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